最近のことです。

或る夕方、疲れをいやそうと、近くにある温泉施設に出かけました。
ひと冬に3回位、行きますが、湯舟に入ったり、出たり、ぼぉーっとしながらも、色々考えが整理出来る至福のひと時です。
しかし、この日は、ちょっとした〝大事件〃が起きました。

風呂から上がり服を着ようとロッカーまで来ました。
その時「しまった」と思いました。鍵が無い!!のです。
そういえば、腕にはめた覚えがありません。洗い桶に入れたまま、ぼんやりと持ち歩いていたのでしょう。
「何処に行ったのだろう・・・」〜体の冷えるのも忘れて、あっち、こっち一生懸命探しました。事情を知った温泉施設の人も一緒に探して下さいましたが、見つかりません。
限られた範囲しか動いていませんから同じ場所を繰り返し、繰り返し探しましたが見つかりません。
もう、「万事休す・・・」です。

温泉施設の方が気の毒そうに言いました。
「実は、このロッカーの鍵は施錠部分が大きい為に、交換となると◯◯◯◯円かかります。」
その金額の大きさに驚きながらも承諾してロッカーを開けてもらいました。
「一週間以内に鍵が見つかれば保証金は全額お返します・・・。」施設の方の説明を虚ろな気持ちで聞きながら帰路につきました。
「仕方がない、人生にはこういう事もあるのだ。まあ感謝して行こう・・・。」と自らを励ましながらも、心の何処かでは「神様、何とか(鍵)が見つかりますように」と祈っていました。

夜、布団に入って休もうとした時、一つの聖書の言葉が、私の心を捕らえました。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」(旧約聖書イザヤ書40章26節)神様は「呼び出される御方」であることを思い出したのです。

(聖書の中で語られている、「罪」という言葉は、的はずれの場所にいるためにそのものの本来の意味と価値を失っている)-その状態を言います。

丁度、ロッカーの鍵がロッカーの鍵穴にはめ込まれて、(鍵)本来の意味と価値と機能が発揮されるのと同様です。
私達人間は、この天地を創造された神様によって造られ存在していますが、「この神を離れ、この神を知らず、自分の勝手な判断と欲のままに生きている為に、人は神様の前に失われた存在となっている」と聖書は告げています。
現代、多くの人々が、沢山の物に囲まれながらも、生きる喜びがなく、空しさに悩まされているのは、ここに原因があるのです。
しかし、今から2000年前に、神の子イエス・キリストは私達人間と同じ姿をとって、この地上に来て下さいました。
「わたしが来たのは失われている羊を捜し出して救うために来たのである。羊(人)の名を呼んで永遠の滅びから救い出すために来たのである。」と言われました。
実は、私自身このイエス様の呼びかけに、招きに応じた時から、私の人生は変えられ、命と生きる喜びに満たされた本当に豊かな人生へ移されたのです。
※今日、ホームページを御覧になっている貴方もキリストは招いて名を呼んでおられるのです。

これらの事を思い出した時、私の祈りは変わりました。
神様の前に、自らの軽率さを悔い改めました。そして大胆に宣言し命じ始めました。「鍵よ、イエス様の御名によって命じる、出て来なさい!」

翌日、朝早く、電話が掛かって来ました。
「鍵が見つかりました。保証金を全額、お返し致しますから、来て下さい!」私は叫びました。
「神様有難う! 鍵よ、出て来てくれて有難う!」