「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネの福音書3章7、8節)
(「風」は神様の働きを象徴するものです。)
若葉から青葉に、草木萌ゆる季節がやって来ました。
野の草花だけでなく、空の鳥も、そして私達人間にも、春は新鮮な命を運んでくれます。豊かな開放感と共に、燃え立つ情熱が沸き上がって来ます。
しかし、一方では、周りの浮き立つ景色とは全く色の違う世界に立っている方もいらっしゃるかわかりません。
私にも、この季節になると、忘れ得ない一コマが浮かんで来ます。
今から20数年前のことです。
その頃、春になると、腹の具合が不調になってましたが、その年は、特に重く感じられました。
だんだん症状は悪くなって行き、そして、そのうちに私の頭に釜(ご飯を炊く、あのお釜です)をかぶせられたかのように一つの思いが占めて来たのです。
寝ても、覚めても「死」しか考えられないようになって来たのです。
その頃の忘れられない光景が今でも、私の脳裏に鮮明に残っています。
〜〜〜当り一面の菜の花畑、近くの土手に沿って桜がきれいに咲き誇り、鳥たちが楽しそうに鳴きながら飛び回っている、まさに春らんまん、春たけなわ、明るい陽差しがさんさんと輝いている〜〜〜
しかし、私の心の中は、灰色と黒の色で占められていました。
希望、喜び、楽しさといった一切の明るいものはありませんでした。
非常に深い孤独と暗闇だけがありました。
丁度、エアーポケットに落ち込んだ時のようです。
そういう状態が続いた或る日の朝、一つの思いが私の心に浮かんで来ました。
しばらく、食事を断(た)って、ただ自分自身を神様の手にゆだねてみよう・・・・。
そして、食事を断(た)って、神様と向き合う時を持つようになりました。
1日、2日、3日・・・・その中である晩、不思議なことが起こりました。
春とは言え、夜はまだ寒い時でした。
夜、眠りに就こうと布団に入りましたが、しばらくすると足元から、風がスースーと入り込んで来たのです。
そして、スースーと肩の辺りまで吹き抜けていくのです。
本当に爽やかな心地良い風です。布団のどこかに隙間があるのだろうと、起きて捜しますが、布団はきちんとかぶせられています。
そして、横になると又、スースーと風が吹いて来るのです。不思議なこともあるのだと思いつつ、いつの間にか眠っていました。その中で一つの夢か幻のようなものを見ました。
あまりにもリアルな光景でしたので、眠って夢を見たのか、起きていて幻を見せられたのか、自分でもわかりません。
その中身はこうです。
「その中で、私のお腹は丸い丘のようになっており、その丘の上、一面に桜の木が植えられていたのです。それが全部、満開になっており、爽やかな風に載せられて花吹雪があちら、こちらで舞っていました。何とも言えぬ明るい光景でした。何とも言えぬ伸びやかな光景でした。
まことに「野山が歌を歌っている・・・・。」そんな感じでした。
そして、その中で私は深い眠りの中に入って行きました。
朝が来ました。昨晩の深い心地良い感覚がまだ私の中に残っていました。
そして、ゆったりとした深い感動がお腹の中から湧いて来ました。
聖書の中でイエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と語っておられますが、本当にそのように深く温かい温泉が湧き上がって来るようでした。
そして、その日を境に、私は、あの「死のカセ」から完全に解き放たれて行きました。神様の不思議なみわざを覚えました。
人間は弱い者です。人知れず孤独の闇や死の闇に沈んでしまう時があるものです。でも、その中で、イエス様の方に手を伸ばすとイエス様はその手を掴んで闇の穴から引き上げて下さり、ご自身の慈愛と慰めの毛布をもって包んで下さるのです。
「あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。荒野の牧場はしたたり、もろもろの丘も喜びをまとっています。牧草地は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をおおいとしています。人々は喜び叫んでいます。まことに、歌を歌っています。」(詩篇65篇11~13節)