春になると、キリスト教会では、ひとつのお祭りをします。

「イースター(復活祭)」という、お祭りです。

その祭りの時に、美しい、そして可愛い絵のシールに包まれた、ゆで玉子(生玉子だと、すぐつぶれてしまうので)をプレゼントしたり、交換したりします。

このお祭りは「神の子のイエス・キリストが私達すべての人間の罪の身代わりとなって十字架に死んで下さり、三日目に、その墓を打ち破って復活して下さった」そのことを記念し、お祝いするのです。

ちょうど、あのヒヨコが成長して、玉子の殻を破って誕生して来るように、神の子のイエス・キリストが「死の壁」という、人間の手では破ることの出来ない壁(殻)を打ち破って復活して下さった――その事の表現として「玉子」が用いられている訳です。

そして、実は、この「イースター」は「すべての人を、すべての恐れから解放してくれる、すばらしい解放の祭り」なのです。

では、この「イースター」というお祭り、又、イエス・キリストとの出会いが、どのように私達を解放してくれるのでしょうか。

 

1)キリストは永遠の実在者であり、私達の将来を保証してくれる唯一の希望だからです。

「これからの将来を確実に保証してくれるものは何もない」これは人間にとって、本当に大きな不安です。

若い頃、私は一つの大手の洋菓子メーカーに勤めていました。

勤めを持ちながら、他に4~5つの仕事を模索していました。

それは、世の中すべては変わりゆくものであり、永遠を保証してくれるものは何処にも無い、とわかっていたからです。

人は一時的なものでは、決して満足できない、安心できない存在です。今日あるものは有限なものであり、今日の保証は明日を約束するものではないからです。

どんな時にも、しっかりと自分自身を掴んでいてくれる、そんな力強い腕が必要でした。その腕を求めて色々と模索していました。

しかし、そんな私の模索の旅も終わりを告げました。この広大な宇宙を造り、それを支配しておられる全能の神の力強い腕が私の足の下に置かれていることを知ったからです。そして、その時から心配症であった私の心に今迄、経験した事のない平安と不思議なゆとりが生まれて来るようになったのです。

「わたしはあなたがたに平安を残します。

わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(イエス・キリスト)

 

2)人を恐れから解放するもう一つのもの、それは愛です。

真実で変わらない本当の愛がキリストのうちにあるからです。

多くの人は物を貯えることによって安心を持とうとしますが、物に頼ろうとすればする程、恐れが増大していくのです。

人に平安をもたらすのは物ではなくて人格的な(愛)です。

私にはひとりの娘がいます。彼女が二歳になる少し前に、次の子供が生まれました。

予定日が来て、母親は病院に残り、夜遅くに私と娘は家に帰りましたが、娘は、母親のいない淋しさと不安でなかなか寝つかれず泣いていました。

やがて、自分の部屋から絵本や大好きなおもちゃを引っ張り出して部屋の片隅に敷き始めました。そして、その上に自分の体を置いたのです。好きな物が沢山あれば、安心できると思ったのでしょうね。

しかし、そうした(物)は彼女に安心の眠りをもたらすことは出来ませんでした。

一週間ほど経って、大好きな母親が病院から帰って来ました。

彼女は、すぐにお母さんに抱きつき、やがて、そのまま安心したかのように眠りこけてしまいました。

(物)が安心をもたらすのではありません。愛が安心をもたらすのです。

「永遠に変わらない愛をもって、わたしはあなたを愛している」とイエス・キリストは語られます。イエス・キリストは、聖霊による愛によって私達を豊かに包んで下さる御方なのです。

 

3)キリストのうちに、すべての罪の赦しがあるからです。

大きな罪を犯した人が、あちら、こちらと逃げ廻っていましたが、とうとう警察に逮捕されてしまいました。

ところが彼は、このように語りました。

「ああ、良かった・・・・。これで安心して眠れる。」

その心に罪があると、人の心は落ち着きません、「罪は死のトゲ」であることを聖書は語っています。「罪」が刺さったままの良心は力なく、弱りやすく、力が湧きません。少しのことで恐れの虜になります。

しかし、その罪が明るみに出され、その罪がきちんと処分される時、人間の心は初めて、明るさと平安、元気を取り戻すことが出来るのです。

「イエス・キリストは、自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」と聖書は語っています。

このキリストのもとに、すべての罪の赦し、があります。

このキリストのもとにすべての和解の道があります。

そして、このキリストのもとに人生の回復の道があり、勇気と希望に溢れて立ち上がることが出来るのです。