悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

(新約聖書使徒の働き2章38節)

 

私の人生、その青春期に於いて、最も大きな問題、悩みは「空しさ」でした。

勤めていた会社は大手の洋菓子メーカーでしたが、勤務時間は長くはなく、給料もそこそこの額を頂いていました。一見、何不自由の無い生活のように思えますが、心の中には、いつも飢え渇きがありました。先輩や同僚と同じように、付き合いで「飲み」に行ったり、「麻雀」を習ってみたりしますが、すぐ「底」が見えてしまうのです。こんな意味の無い事をしながら、このやり直しの効かない一度きりの人生を送って行かなければならないのかと思うと、やり切れない思いで毎日を過ごしていたのです。

そんな日々を送っている時、会社の先輩が私を教会に誘ってくれました。

「内田君、教会に行こう。君の求めているものが、そこにあるよ!」

それに対して、私の内側の思いは冷ややかでした。

僕の求めているものは、そんな閉じ込められた世界ではない。大きく開かれた「世界」の中にあるものだ。そして、目に見えないもの(信仰の世界)ではなくて、目に見える具体的に人生を導いてくれるもの、を求めているのだ!

大きな反発を心に持っていましたが、熱心に誘ってくれる先輩の声に負け、一度だけ教会に行く約束をしました。

教会に行くと、黒い服を着て腰に縄を結んだ神父さんが出て来て、「皆さん、正しく、清い生活を送りましょう。アーメン」とか何とか言って生活の反省をして、礼拝を終えるのだろう、と思っていました。

ところが、実際に教会に行って見ると、普通のスーツを着た人(牧師さん)が出て来て、とても面白い話をするのです。

思わず笑いながら、話しを聞いていました。

そして、その人の話を聞いていると、「神様を信じたら、こういう事も出来る、ああいうことも出来る――神様を信じたら出来る、出来る・・・・・」のオンパレードです。

神様信じたら、「あれもしたら駄目!、この事もしたら駄目!」と言われるだろうと思っていたのに全然違っていました。

それから、教会に少しずつ通うようになりました。初めのうちは、色々わからない事だらけでしたが、段々と心の中で、今迄の世界では、交わりでは、感じ得なかったものを感じるようになって来たのです。

或る時、ひとりの人がわたしに向かって言いました。「内田さん、あなたの(心)は見えますか?」「いや、見えませんよ。でも、ちゃんとありますよ!」

その人は言いました。

「そうですね。目に見えない(心)を、目に見える(モノ)によって満たそうと思うから、多くの人は行き詰まるのですよ。目に見えない部分は、目に見えないものによってしか満たすことが出来ないのです。」

私は、その時に「ああ本当にそうだ!!」と思いました。

「あれか、これか」と一生懸命、心を満たすものを求めて、捜し廻っていましたが、目に見えるもので、心を満たすものは何一つありませんでした。その人は続けて、こう言いました。「イエス様を信じて、心の中にお迎えなさい。目に見えない、しかし、確かにいらっしゃる御方があなたの心を潤し、満たして下さいますよ・・・・。」

後になって、それは、イエス様を信じて救いを受け入れた人に神様が与えて下さる。「神の聖霊」であることがわかって来ました。

その御方を求めました。そして、その御方がやって来られました。私の内側を住まいとして住んで下さいました。

すると、まず「孤独」から解放されました。私のすべてを知った上で尚、「共に居るよ。君には大きな可能性があるよ。」と、いつも変わりなく励まして下さる方を知ったからです。

2番目に、心の内側から「喜び」の泉が湧くようになって来たのです。

何もしなくてもです。良いと見えることが何も無くてもです。心がウキッウキッとして来るのです。

心と顔が自然とほころんで来るのです。(あれから数十年、経ちました。――喜びも生き甲斐も、もっともっと溢れています。)

もう一つの事がありました。

「不可能は挑戦を生み出し、挑戦は可能性を生み出す。」

不可能と見える事柄に出会うと「血が燃える――内なる神の聖霊が燃える」のです。「よっしゃあー!やってみるど!!」となるのです。

年を取る程、ますます挑戦の炎は燃えるのです。

廻りから見ると「ちょっとネジが緩んでいる人かも・・・・。」と映るかもしれません。残念です。ネジは遠い昔に、全部はじけ飛んでしまいました。

毎日が「行け!行け!」です。

ハチャメチャのようですが、本当に満ち足りています。嬉しいです。楽しいです。そして「幸せです!」

こんな素晴らしい人生もあるのです!