「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(新約聖書ヨハネの福音書7章37、38節)

 

真夏のうだるような暑さから少しずつ解放され、朝夕の涼しい風の中に静かな秋の訪れを感じるようになりました。
私達の教会は、福岡市の最北端に位置する小高い丘の上に建っていますが、周囲にはまだ緑が多く残っています。
真夏の間、頑張って鳴いていた蝉の声は少し静かになりましたが、秋の訪れを告げる虫の声や、暑い間何処かに隠れていた雀たちも帰って来、朝早くから賑やかに歌っておしゃべりをしています。教会の庭には、少し遅咲きの「朝顔」が朝ごとに次々と新しい花を咲かせて大盛況の状態です。
形も色々あり、普通の大きさもあれば、大輪の花もあり、桔梗型のもあります。模様も全体が一色のものもあれば、ぼかしの入っているものもあり、浴衣のように絞り染めのものもあります。色も、赤・青・紫・ピンク・白とあります。同じ「青」でも紫がかった青、濃い青、普通の青、薄い青、そして青白色とバラエティーに富んでいます。各々の朝顔が各々の色で、各々の形で満開になりながら、毎朝、大合唱をしています。こうした豊かな自然の中に囲まれて気づくことは「命の瑞々しさ」です。
動物にしても、植物にしても、各々の生きものが、他人の真似をすることなく、自分の色で、自分の姿で、自分の形で精一杯、与えられた「命」を輝かせているのです。

 

私達人間も、毎日、そのように「命輝いて」生きられたらどんなに素晴らしいことでしょう。神の言葉、聖書の中に一つの言葉があります。
それは「プレロマー満ち溢れる命の輝き」という言葉です。

それは、ただ、そこに一つの(物)として存在している、というのではなく、――その存在が命に溢れ、その命が周りに溢れ滴って影響を与えて行く――その状態を言うのです。
私達人間は、自分の内にある(有限な命・能力)を一生懸命、駆使しながら、時には自分の(能力)をはるかに越える問題や戦いに遭遇しながら、「頑張れ・頑張れ」と自分を励まして乗り越えて行かなければなりません。
その連続の中で、時には疲れ果て、失望し、自信を失ってしまうことも、しばしばです。

 

数日前、私の自動車が動かなくなってしまいました。
バッテリーが古くなって、使えなくなってしまったのです。
電気を貯めておくことが出来なくなったのです。人間で言うならば、「燃え尽き症候群――バーンアウトシンドローム」になってしまったのです。
幸い、JAFの方に来てもらって、他の車からケーブルを引いてエンジンをかけ、車を動かして修理工場まで持って行くことが出来ました。
私達人間の「命」という(バッテリー)も有限です。どんなに新しいバッテリーを買っても、いつかは、必ずすり減って命を失い、動かなくなってしまうのです。
私達の人生に必要なのは(自分の命)という有限的なバッテリーではなく、どんな時にも一発点火、力強く回転しながら、どんな道も乗り越えさせて行く強力なバッテリーが必要です。
そのバッテリーこそ、この天地万物を創り、すべてものに豊かな命を与え続けていて下さる、真の神、イエス・キリスト御自身なのです。

 

「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(新約聖書・コロサイ人への手紙2章9.10節)と聖書は語っています。

 

「信仰」とは、この無限の命の供給者である、イエス・キリストに、私達の「信頼」というケーブルを繋ぐことなのです。そのケーブルを通して、神(イエス・キリスト)からの朝ごとに新しい生命と力、勇気と希望が私達の心に注ぎ込まれて来るのです。

 

「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ことができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(旧約聖書イザヤ書.40章30.31節)

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(新約聖書、ローマ人への手紙、5章5節)

 

これからの時代は、今迄の時代以上に、多くの問題が起きて来るでしょう。
しかし、「イエス・キリスト」という、生ける「命の供給源」を内に宿しているならば、問題に打ち負かされることなく、逆に問題をバネにして、大きく飛躍して行く人生となって行くことが出来るのです。