昔、日本の軍隊に、一つの言葉がありました。

それは「死に方良し!」という言葉です。

「いつ死を迎えても大丈夫!心の準備は出来ている!」ということなのでしょうか。

人間にとって「死」というテーマは恐ろしいものですが、私達の一回きりの人生、――その重さを思う時に、別な意味で「死」を促えることは非常に重要なこととなって来ます。

 

全人類の救い主である、イエス・キリストは聖書の中で

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(新約聖書ヨハネの福音書12章24節)

と語られました。

 

「種」はどんな種類のものであっても、袋の中に大切にとっておいては意味がありません。「種」は地面に蒔く(自分を捨てる)ことによって初めて、その真価(命)が現わされて来ます。私達の人生に於いても同様のことが言えます。或る時、「思い切って死ぬ、投げ出す」――その事によって、人生の本当の価値が現わされて来ることがあるのです。勿論「死ぬ」と言っても、本当にその命を断ってしまうならば、元も子もありません。「死んだ気持ちになって思い切って、その人生をキリストの神にお渡しし、その人生を神様の導きに従って歩んでみる――すると、今迄、全く思ってもみなかった人生が、道が、開かれて来る。」ということがあるのです。

 

キリスト教会では、イエス様の救いを信じた人々が受ける「洗礼式」という式があります。これは「古い自分(生き方)に死んで、神にあって新しく造られた者として生きる」ことを告白し、表現する式です。

この事に関して、聖書は

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(新約聖書ローマ人への手紙6章4節)

と証言しています。

 

今日、多くの人が「自分の人生は失敗した。年も取ってしまって、もう取り戻すことも出来ない。もう私の人生、終わってしまった。しょうがない・・・。」と人生を投げ出してしまっています。「失敗した人生、自分でどうにもならない人生、やりきれない人生――いっそこんな人生終わってしまえ!」と思っています。そうです。そういう過去に付き合っている必要はありません。そういう過去は死んでしまえば良いのです。しかし、ただ「死んだ」では意味がありません。

 

 

「キリストにあって、キリストと共に死ぬ」ことです。

 

 

キリストのあの十字架は、人間の「挫折と失敗と屈辱と破れ」のすべてが置かれた場所です。イエス・キリストは、あなたの痛みも悲しみも恥も、全部、あの十字架の上で、ご自分の身に背負われたのです。あなたの人生の、すべての呪いを、その身に引き受けて死んで下さったのです。そして3日目によみがえられました。あなたを生かすためです。あなたに新しい命を、新しい人生を与えるためです。

 

このキリストの十字架をあなたの正面で見ることです。

 

このキリストの十字架をあなたの正面で受け取ることです。

 

キリストと共に死に、キリストと共に生きるのです。

 

キリストは、どんな人生も造り変え、どんな人も造り変えることが出来るのです。

 

そうです。あなたには人生をやり直すことが出来るのです。