「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。
(旧約聖書ヨブ記1章21節)

 

日本に大きな災害が訪れて来る時代です。
しかし、「危機」をして、「危機ならしめるもの」それは私達の「心」にある、と言われます。

 

1) 正常性バイアス――自分は大丈夫!という自惚れ

2) 無関心――災害が自分の所でなくて良かった(個人主義)

3) 「水と平和」はタダ(無料)!――誤った安全神話

 

起きて来る災害、その被害をもっと大きくしているものが、上に挙げているように「国民の多くの内に根を張っている習慣的思考」にあると言われます。

 

私達は、この国に起こる「自然災害」を自分の事、自分の問題として真剣に考えねばならない時に来ています。
日本の国は、面積は小さいけれど四季折々の変化に富んだ国です。
これ程四季の変化に富んだ国は、世界に於いても稀なる存在です。
そして私達の先祖は、その自然を愛し慈しみ、その自然と共存することを学んで来ました。
その中で私達日本人は感受性豊かな国民として育てられて来ました。
しかし、押し寄せる近代化の波の中で「モノ(物)とスピード(機能性)」に追い立てられて、「日本の心と感性」をすり減らし失ってしまいました。そして、逆に「早い者勝ち」とばかりに、周りの里山(昔ながらの自然風景)を「我が物顔」でどんどん切り崩し、海を埋め立て、人間の欲望のままに自然界を破壊してしまいました。(自然界の崩壊は人間の心の崩壊であることを知らなければなりません)
そしてその結果、今日、多くの惨状を刈り取っているのです。
私達は今、大きな方向転換が求められていること、を知らなければなりません。

 

天地万物をお造りになり、それを今も支配しておられる神様、その神様の御言葉である「聖書」は、「神様は人間のために、人が心豊かに生きていく、暮らしていく為に、神様の法則(摂理)によってこの世界(自然界)をお造りになった。」と教えています。人が神様の摂理に従って人生を歩む時、人は内側(心)に於いても、外側(環境・人間関係)に於いても、本当に豊かな人生を送ることが出来るのです。
しかし、人間は、いつの間にか、思い上がってしまい、「自分の考えが一番正しい」とばかり、自分の判断の赴くまま、心の欲望の赴くままに生きるようになってしまいました。
聖書は、この状態を「罪」と呼んでいます。「罪」とは「的はずれの人生」、その状態を言うのです。
神様を中心として生活するはずの人間が、自分の判断と欲望を中心とした生活をする――これが「罪」なのです。

 

日本人は非常に賢く、優れた頭脳を持っています。
そして、その勤勉さの故に、戦後数十年も経たないうちに世界第二位の経済大国にのし上がって来ました。
しかし、世界の国々からは「イエロー・モンキー」「エコノミックアニマル」と仇名されるなど、あまり良い評価は得ていません。それは、その精神性の貧しさに大きな問題があることを指摘されているのです。

 

聖書の中に「ヨブ」という人が出て来ます。
彼は神を信じ、神を敬い、それなりに正しい生活をしていましたが、いつの間にか、その生活は自分の正しさを誇り、拠り所とし、自分達本位の生き方に変化していました。そのヨブに、或る時、試練と災難が襲いました。
始めの頃、ヨブは「何故?どうしてこんな事が?」と思った時もあったでしょう。
しかし、やがて、彼は自分の間違いに気がつきました。
神様の法則(摂理)よりも、自分の考え方を正しいとして自分本位の道を歩んでいたことを・・・・。
彼は神様の前に、素直に、自らの間違いを認めて悔い改めました。
そして、神様は、その悔い改めたヨブに対して、以前にも増して素晴らしい祝福をもって彼の人生を飾って下さいました。
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」このヨブの告白が、自分の人生に於ける告白となる時、私達は、この自然界の背後に居られる御方、真の神様との豊かな交わりの中に導き入れられ、どのような災難も恐れない、堂々とした人生を送ることが出来るのです。様々な問題を受け留め、逆にそれをバネにして、力強い歩みへと導かれて行くのです。
――イエス・キリストの十字架は神と人との和解を、そして、人と自然界の和解をもたらしてくれるのです――
ハレルヤ!