イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 

 

キリスト教会では、毎年、春になると「イースター」(復活節)を祝います。
それは、神の御子のイエス・キリスト様が、人間の罪の身代わりとなって十字架で死んで下さり、三日目に死の墓を打ち破って復活して下さった、「死」というものを征服し、勝利して下さった――そのことを覚え、記念して行なうものです。

今、世の中は「コロナ」という、目に見えないものによって恐れに縛られています。
コロナが恐ろしいのではなく、それによってもたらされる(死)の影におびやかされているのです。

何故、人は(死)を恐れるのでしょうか。
(死)は、単なる肉体の終わり、ではなく、その後に永遠に続く暗闇の世界があることを人間の魂は知っているからなのです。

この天地万物をお造りなった神様は、「人」を神様と共に永遠に生きる存在として造られました。
しかし、人は自分の思いのままに生きることを選び取り、神様との交わりを破ってしまいました。
「罪」とは、元来、あるべき立場から迷い出て無価値なものになってしまう、ことを言います。
そして、一度、神様と命の交わりから出てしまうと人の努力や、わざによっては、元の位置・立場に戻れなくなってしまい、後は「永遠の滅び」に入っていくのを待つだけになってしまうのです。
しかし、創造主なる神様は、そういう人間の姿を憐れみ、もう一度正しい命の関係、愛の関係に連れ戻すためにひとり子イエス・キリストを、この地上に送って下さったのです。

イエス・キリストが、あの十字架の上で私達の罪の審きを、ご自分の身で受けて下さったことにより、私達一人一人の罪が赦され、神様との愛の交わりの関係に戻ることが出来るようになったのです。
この「キリストの十字架の救い」を知ることにより、私達の人生は「希望」に溢れる人生へと造り変えられて行くのです。

1)人が「死」に際して味わうであろう、あらゆる痛み、悲しみ、孤独、おののき――そのすべての苦しみをイエス様は私達に代わって味わって下さったのです。

「そこで、子たち(人間)はみな血と肉とを持っているので、主(イエス・キリスト)もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々(私達のこと)を解放してくださるためでした。」
(新約聖書ヘルブ人への手紙2章14、15節)
と聖書は語っています。

2)イエス・キリストは、死に対して完全なる勝利を成し遂げて下さいました。

「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。
『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」
(コリント人への手紙Ⅰ、15章54〜57節)

3)イエス・キリストから注がれる命と力によって、希望に溢れた大胆な人生が展開されて行きます。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
(新約聖書ローマ人への手紙8章37〜39節)

※このメッセージをご覧になられた方々へ
神のことば、は人の内側に深く浸透して、内側から不思議な変化を起こしていきます。
「   」内の聖書のことばを、自分の言葉として何度も繰り返して告白してみて下さい。